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菊池風磨、中間淳太、松村北斗、阿部亮平が「戦争の記憶」を聞く旅へ!「僕たちは戦争を知らない〜1945年を生きた子どもたち~」放送

NEWS 2022.08.01

僕たちはまだ戦争を知らない 8月14日(日)放送のドキュメンタリー「僕たちは戦争を知らない〜1945年を生きた子どもたち~」(テレビ朝日系)に、菊池風磨(SexyZone)、中間淳太(ジャニーズWEST)、松村北斗(SixTONES)、阿部亮平(Snow Man)が出演。平和への思いを強く抱き、自らが演出するステージで度々、戦争の悲惨さを描いてきた故・ジャニー喜多川氏。その信念を受け継ぐジャニーズ事務所所属の4人が、子ども時代に戦争を体験した5人の証言者の声を聞くため、全国各地を訪ねる。

 戦後77年、戦争体験者が少なくなり、戦禍の記憶が薄れてきた今だからこそ、聞いておかなければならない思いや記憶。番組では、戦禍の中を生きた市井の人々の声に耳を傾け、ありのままを伝えることで、悲惨な戦争の不毛さと、それでもなお強く生きた日本人の姿を伝えていく。

 菊池風磨は、都内に住む鈴木忠典さん(現在93歳)を訪問。忠典さんは海軍の活躍を伝える映画に憧れ、14歳で“海軍特別年少兵”に志願。主に激戦地・ソロモン諸島付近で、魚雷艇という20メートルにも満たない小型船で敵の軍艦に近づき魚雷を放つ、極めて危険な任務についた。戦場では、相手を攻撃することしか考えられなくなり、同船する仲間が負傷しても、優しい言葉をかけられなかったと述懐。菊池は、「人の心を亡くしてしまう戦争の悲惨さが、鈴木忠典さんのお話からひしひしと伝わってきました」と語る。

 また、菊池はもうひとり、埼玉県に住む鈴木賀子(よりこ)さん(現在84歳)からも戦争体験をうかがう。1945 年3月10日の東京大空襲。7歳だった賀子さんは母を亡くし、4歳の弟とともに生き延びた。親戚からたらい回しにされた2人が辿り着いたのが、上野駅の地下道。食べ物もなく、誰も助けてくれない状況の中、幼い2人はどのように過酷な地下道を生き抜いたのか。話を聞いた菊池は、賀子さんの、弟への深い愛情に胸を打たれたと話す。

 中間淳太が訪ねたのは、国内唯一の地上戦の地となった沖縄。当時16歳の女学生だった武村豊(とよ)さん(現在93歳)は、故郷を守りたいという思いから学徒隊として従軍看護助手となった。当時、沖縄各地では壕とよばれる洞窟を野戦病院として使っていましたが、豊さんたちはそこで負傷して担ぎ込まれる人たちの世話をしたという。豊さんに会いに行った中間は、慰霊碑に手を合わせるとともに野戦病院の跡地も訪問。今回のロケを「今後の人生において重要な時間となりました」と語った。

 そして、松村北斗は長崎へ。自らが通っていた小学校にある祈念館で、原爆の語り部を勤めている池田松義さん(84歳)のもとを訪ねる。当時7歳だった池田さん。爆心地から700メートルほどの地点で被爆。家族全員を失って、これからどう生きていくのか。悲しみよりも不安でいっぱいだったなか、安らぎの場となったのが再開した学校。原爆で約1500人の生徒のうち1400人あまりが亡くなったが、生き残った教師たちが、わずか1ヶ月半ほどで授業を再開。そこに池田さんをはじめ、生き残った生徒たちが集まった。そんな対話を経て、松村は「取材中に言葉にし切れなかった瞬間、その感情がすごくリアルで大切」と、実際に戦禍を体験した人々の声を届けることの大切さを実感。

 阿部亮平は、ジャニー喜多川氏も疎開していた和歌山へ。9歳で空襲の恐ろしさを体験した田中誠三さん(現在86歳)を訪ねる。1945年6月22日、空襲で自宅に爆弾が直撃。防空壕に逃げ込んだものの、母と2人の姉たちの命は奪われてしまう。その後、7月9日の和歌山大空襲では、市街地一帯を円で囲むように焼夷弾が落下。避難場所となっていた旧県庁跡地の空き地では凄まじい火災旋風が起き、逃げ場を失った700人以上の人が焼死した。ジャニー氏が自身の戦争体験を投影して作り上げた舞台『少年たち』シリーズにも出演したことがある、阿部。「どこか田中さんにジャニーさんを重ねてお話を聞いていたところもあったかもしれません」と語ったが、そんな田中さんの壮絶な体験談に言葉を失い…。

 戦後77年、4人が実際に自身の目と耳で確かめた、【77年前に起きたことの記録】を、ぜひ受け止めてほしい。

【番組情報】
8月14日(日)
僕たちは戦争を知らない〜1945年を生きた子どもたち~
テレ朝系 後1時55分~午後3時20分 (※一部地域を除く)

 

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