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ブラジル通信
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[11]ジーコの教えを糧に。日本にあった起業のチャンス 土井エジソン

土井氏 日系ブラジル人の土井エジソン氏と出会ったのは、今年3月。日本に在住する同氏が、サンパウロ州イトゥ―市で、日本とブラジルの少年サッカー交流大会を開催するため来伯していた時だ。同氏は「フッチボーラ」という会社の代表を務め、サッカーイベントやブラジルの名門サントスのサマーキャンプ日本開催やサッカー留学支援、あるいはブラジルでの取材コーディネートなどを行っている。
 日本語が読み書きも含めて堪能で、日本人以上に謙虚な物腰が印象的な同氏。実は、かつて日本でジーコ氏の専属通訳をしていた人物だ。
 同氏が「偶然の流れ」と言うジーコ氏に辿りついた経歴は、確かに運命を感じさせる。

 土井氏が初めて日本へ渡ったのは23歳。ブラジルで銀行のシステム開発の仕事をしていた同氏は、JICAの研修生として、1年間半日本でファクトリーオートメーションを学んだ。きっかけは「日本に興味があったわけではないですけど、たまたま募集があったから」だそうだ。
 研修を終えた同氏はブラジルに戻ったが、日本での経験を活かせる仕事はなく、再び日本へ。電気機器メーカーでロボットのプログラマーの職に就く。しかし次第に行き詰まりを感じ始める。「朝晩、満員電車に揺られながら考えましたね。せっかく日本に来てやりたかったことはこれなのかと」。同氏は好きなブラジル音楽を日本へ普及させたいと考え、会社を辞めてブラジル音楽のプロダクション業務を始めた。

 その後転機が訪れる。Jリーグが開幕することになり、ブラジルからいくつものビッグクラブがプレシーズンマッチのため来日。土井氏はコーディネートを手伝うようになった。
 この時来日したブラジルのチームは日本へ選手を売りたいと考えており、土井氏が鹿島アントラーズ(鹿島)と交渉を行った。ところがその時は同クラブからは「今選手はいらない。必要なのは通訳だよ」と言われ、「そうですか。では何かあったら」とその場は引き上げた。するとしばらく経ち、「通訳必要だからぜひ会いたい」と同クラブから電話がかかってきたのだ。

 当時の鹿島は、ジーコが現役は引退していたものの、テクニカル・アドバイザーとして深い関係を維持していた。土井氏は「ジーコの元で仕事できるならいい勉強になる」と考え、鹿島で仕事する決意をした。
 同クラブに1996年末から2004年までの8年間所属し、主にジーコの営業や取材活動での帯同や契約関係、あるいは家族のサポートも行った。

 土井氏がジーコ氏の通訳を担当していた時代には、Jリーグには大物選手がいた。例えば鹿島にはジョルジーニョ氏らがいたが、土井氏はジーコ氏や彼らからプロフェッショナルとは何かを学んだという。
「ファンサービスが素晴らしかった。何時間でも嫌な顔一つしないでサインし続けるんですよ」。ジーコ氏は「自分たちの仕事はピッチでプレーするだけじゃない。お金をもらえるのは、クラブでなくサポーターたちのおかげなんだ」とよく話していたという。

 土井氏はその後、日本サッカー協会に呼ばれフットサル日本代表監督の通訳を4年間務めた。そして、現在の会社を設立。しかしリーマンショックや震災の影響もあり、事業は順風満帆とは言えず「食えなくなりそうな時もあった」という。それでも同氏はジーコ氏らから学んだ周りに還元する精神を忘れない。
 「ビジネスはビジネスです。ですけど例えば僕が主催する大会では、日本から参加する選手やチームに、古くなったボールやスパイクの寄付を呼び掛けています。ブラジルには道具を買うお金ない子どももがたくさんいる。微々たるものですけど、彼らのために活動を続けたいですね」。

 今でも土井氏は、ジーコ氏をはじめ、かつてJリーグで活躍した有名ブラジル人選手らと固い信頼関係で結ばれている。それは彼ら選手がファンを大切にしたように、土井氏が選手たちに誠意を持って仕事してきた結果にほかならないだろう。

 

【筆者紹介】
夏目祐介夏目祐介 YUSUKE NATSUME

1983年東京生まれ。早稲田大学、英国ローハンプトン大学院(スポーツ社会学)卒業。2009年ベネッセコーポレーション入社、2013年同退社。W杯のためすべてを捨ててブラジルへ。現在ブラジル邦字紙「サンパウロ新聞」記者。