1965年、東京都大田区出身。小学校4年から大学時代まで、野球をプレー。立教高校時代には長島一茂らとグランドでプレーをともにする。大学卒業後、出版社勤務を経て、フリーのベースボール・ジャーナリストに。多数の野球雑誌等への寄稿、オフィシャル・ブックの制作など、関連メディアの活動は多岐にわたる。著者に「落合戦記」(ダイヤモンド社刊)など。
かつて“四番エース”として甲子園に挑んだ、忘れじの元高校球児9人を、横尾弘一が徹底取材したノンフィクション「四番、ピッチャー、
背番号1」が書籍になりました。
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一九四七(昭和二二)年から四九(昭和二四)年にかけて生まれた人たちを『団塊の世代』と呼ぶ。作家の堺屋太一氏が、七六年に発表した小説のタイトルに用いて普及した言葉だ。太平洋戦争の終結に伴って復員した人たちが結婚して家庭を築いたことにより、この三年間の出生人口が急増し、第一次ベビーブームとなった。同世代の激しい社会競争に身を置いた彼らは、自己主張が激しく、戦後生まれという自負から自由に対して強いこだわりを持つと言われている。
学生時代には社会の改革を訴え、学生運動やベトナム戦争反対の反体制運動に燃えた。その一方では高度成長を遂げた豊かな社会の中で、ドライブやファッションを楽しむなど若者文化の基盤を築く。家庭を持つ年齢になると、住宅不足から大都市郊外に建設された団地に居を構え、八〇年代後半からバブル景気の時期には社会の中核を担ってきた。そうして二一世紀を迎え、〇七年から一〇年にかけて、企業戦士として活躍してきた『団塊の世代』は定年退職を迎える。必死に走り抜けてきた六〇年の人生を経て、彼らがこれからをどう生きていくか。戦後社会のトップバッターを務めた彼らの生き方は注目されている。
有澤賢持は、そんな世代の終盤にあたる五〇年に生まれた。この年に生まれた者も『団塊の世代』に含めるという考え方もあるが、一般的には『ポスト団塊の世代』と言われている。それでも出生人口は二〇〇万人を軽く超え、依然として激しい社会競争を体験している。
北海道のほぼ中央に位置し、札幌市に次いで道内第二位の人口を有する旭川市が有澤の故郷だ。最近では、動物の行動展示を実施する旭山動物園が話題を集めており、日本気象観測史上最低気温の摂氏マイナス四一度を記録した(一九〇二年一月二五日)地域でもある。雪に閉ざされる期間が長く、少年時代の有澤は五月から一一月という短いシーズンにボール遊びを目一杯楽しんでいたという。友人は多かったが、リトル・リーグなど、しっかりと野球を教えてくれる組織はなく、我流で身につけた投球フォームから、本能のままに速球を投げ込む左腕投手だった。中学では野球部に入部したが、『大会』と名の付く試合で勝った記憶はひとつもない。
そんな有澤が中学二年生の時、地元に私立高校が新設された。旭川日大高校という。
この学校の歴史は古く、一八九八(明治三一)年に旭川裁縫専門学校として開校している。その後、女子高として歴史を重ねてきたが、六四年に日本大学と提携するのと同時に男子部を新設し、校名もあらためた。旭川日大高校は、男子生徒を集めるためにスポーツに力を入れ、中でも野球部はシンボル的な存在とされた。
北海道の高校野球は、古豪の北海高校を中心に、札幌や函館など道南の高校が甲子園に駒を進めており、旭川の高校が代表権を獲得したのは、二六(大正一五)年の旭川商だけだった。その後、高野連への加盟校数や地理的状況を考慮され、五九年から夏の北海道大会を南北に分けて開催するようになると、六〇年に旭川北が北北海道代表として甲子園の土を踏む。さらに六四年には、旭川南も代表権をつかんだ。しかし、甲子園で白星を挙げることはもちろん、道内でもコンスタントに上位へ進出できる力はまだなかった。
そういう状況だったから、本格的に野球に取り組むことのできる高校が新設されたのは画期的なことだった。甲子園に憧れていた有澤も、六六年四月に旭川日大高校へ入学する。野球部の門を叩くと、新入生だけで一一三名が入部しており、中には他の市町村からスカウトされてきた者もいた。
当時は、どの高校の野球部でも、軍隊さながらの緊迫した雰囲気と厳しい上下関係は当たり前のことだった。また、多くの新入生が入部するような高校では、野球を始める以前に挨拶や行動に関して徹底した指導が行なわれた。ボールを握るまでに、新入部員をどこまで減らすことができるか。そんな不条理な篩にかけられ、必死に生き残らなければ、野球に取り組むことさえできなかったのだ。
開校三年目にもかかわらず、旭川日大にもそんな雰囲気は浸透していた。一ヶ月もすると、一年生は半数近くが退部した。そうした中で、身長が一七〇センチに満たず、当時でも平均よりは小柄な部類だった有澤は、最初から厳しい先輩の目に留まるような存在ではなかったのだろう。黙々と打撃投手などをこなし、最初の篩は見事にパスした。
「真っ直ぐには自信を持っていましたが、最初のうちは打撃練習でもポンポンと打ち返されて……。やはり高校野球では通用しないのかな、と落ち込んだこともありました」
目の前にいるのは、五七歳になった有澤だ。
胸板の厚さをはじめ、小柄ながら密度の濃い体型を見れば、背広に包まれた有澤の体がしっかり鍛え込まれたものであることは容易にわかる。そんな若々しい肉体と、自らの人生を語るゆっくりした口調、穏やかな表情のコントラストが印象的だ。
四〇余年前の回想を続ける。
毎日の練習は厳しかったが、それ以上の鍛錬をしなければマウンドに立てないと考えた有澤は、朝晩に走り込みをしようと決意する。実家は高校からそう遠くない場所だったものの、登校前と練習後に一〇キロのランニングを始めた。
すると、下半身が安定してコントロールに磨きがかかった。四隅のコーナーぎりぎりに投げ込まれる有澤のストレートは、上級生でも簡単には打ち返すことのできないレベルになった。また、カーブも鋭く曲がり落ちるようになり、大きな武器に変わった。
最初の夏が終わり、新チームがスタートすると、有澤はベンチ入りメンバーに選ばれた。秋季大会で与えられた背番号は7。さらに、二年生になると、安定した投球とともにバッティングでも非凡なセンスを見せ、早くも背番号1を手にした。
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